【毎日が奇蹟】常識のワナ/正しさは必要なく大多数の人間に知られることで成立してしまうもの/自分らしく生きるための社会との距離とは

自分らしく生きるための社会との距離とは 毎日が奇蹟

沖縄在住の光雨ゆうすけです😊
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そもそも「常識」とは何か

「常識」という言葉には、
こんな意味があります。

当然、わきまえているべき事柄や知識、判断。

一見、なんの問題もない説明です。
むしろ、納得さえしかねません😊

僕たちは「常識」を信じ、
「常識」に寄り添って暮らしてしまいがちですが、

この言葉には、
見えない背景が存在します。

それは、一般的な人間が
という前提です。

一般的な…は、
広く世間に知れ渡っていることを意味し

人間が…は、
地球上の数多くの生命の中で、
人間が対象となっています。

しかもその人間とは、

先進国を中心とした、
情報伝達(コミュニケーション)の盛んな国に住む、
洗脳される可能性の高い人々が暗喩されています。

つまり常識とは、
そうした人々にとって有益でありさえすればよく、

さらには、

どんなに素晴らしい思想や運動が、
普遍の真理をたずさえた人によってつくられても、

常識さえ盾にすれば、
いくらでも、
それらをたたきつぶすことが可能
なのです。

いいかえるなら、
常識に正しさは必要なく

大多数の「人間」に知られることで、
成立してしまうもの
なのです。

常識を生み出すもの

「常識」の代表的な広報役が、マスコミです。

そして、マスコミを支配するものは、
彼らのスポンサーとなる大手企業です。

この件に関しては、
政治家も政府も、
ほどんど無力といっても過言ではありません。

ご存知のとおり彼ら(政治家や政府)には
人々をひきつける力はありませんし、

彼らに政治資金を提供しているのも、
大手企業なのですから。

かつての偉人たちが例外なく、
「常識に捕らわれるな」と

いいつづけてきたのは、
なぜでしょうか。

そこには「独創性を大切にせよ」という意味だけが、
あるわけではないことを、

僕たちは腑(ふ)に落とす必要があります。