自由のために学ぶ

ひかりあめの暢弘です。
当ブログにご訪問頂き、有難うございます。

人間は、生まれつき学ぶようにできています。

小さな子供の発する「なぜなぜ攻撃」は、
好奇心を満足させるためだけなのかもしれませんが、

不思議なことに、こうした探求心は、
大人になるにつれ、徐々に薄れてしまいます。

学習の基本とも言える「読書」にいたっては、
教養を育むべき立場にある大学生でさえ、

平均読書時間が1日23.6分と3年連続して減少し、
まったく読書をしない大学生が、
過半数をしめている…という事実があるようです。
※全国大学生活協同組合連合会調べ

一方、自由に対する考え方、捉え方も様々で、

自由を履き違えている人も、
少なくないように感じます。

もっとも多い、解釈の間違いが、
束縛されないこと…イコール自由!という定義です。

基本的に束縛とは、誰かにされるものですから、
この時点で、不自由の原因を、
自分の外側に求めてしまっています。

ですから、こうした捉え方で自由を定義してしまうと、
その発想の罠を見破れない限り、
永遠に束縛を感じ、不自由を味わうコトになるのです。

実際に、パートナーの束縛を、
離婚の原因にあげるカップルも多いのですが、

束縛したとされる側には、
束縛した意識はなく、

束縛されたとされる側だけが、
束縛を感じているケースが殆どです。

言い替えるなら、束縛という主観を、
感じてしまった自身の心身波動を上げなければ、
束縛体験は何度でも繰り返されます。

僕たちは、生来自由な存在でしたが、
社会との関わりの中で、不自由さを経験します。

そして、そうした不自由な体験を通して、
自由をもう一度手に入れる(思い出す)ことが、
人生の面白さ、醍醐味でもあるのですが、

束縛と自由を天秤にかける発想では、
前述のとおり、うまく行きません。

では、どうしたら良いのか。

束縛を感じている自分に、
その理由を問うのです。

僕たちは、他者の決めた目標に向かって、
他者の決めた遣り方で、
何かを強制されている状態を束縛と感じ、

不自由さを味わい、
自由を渇望するようになるのですが、
であるのなら、

自分の決めた目標に向かって、
自分の決めた遣り方で、
自ら行動すれば良いのです。

そして、そのために必要なものが、
まさに「学び」です。

それは、幼少期に経験した、
好奇心を満足させるだけの学びではなく、

読書などを通じて、

自然則に沿った生き方、
感情をコントロールする方法、
身だしなみや挨拶、
言葉遣い、
自分の意志を相手に伝えつつ、
判らないことを質問できる術…等々、

こうした、生きるための学びの不足分を補うだけで、
誰かの決めた目標に向かう必要はなくなります。

その上で、自身にとって興味をそそる
教養を身に付けることで、

自分の目標が設定できるようになり、
そこへ向かうための、自分なりの遣り方を開発でき、
自ら行動できるようになるのではないでしょうか。

哲学者のヘーゲルは、言いました。

 人間的欲望の本質は「自由」である。

この言葉の意味は、決して、
不自由に置かれた状態から、
逃避することではないはずです。

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