【毎日が奇蹟】ハタチになった光雨/何が何でも今日までは守りたかった大切な息子/これからは無意識側まで心地よくなる仕事をしよう

ハタチになった光雨 毎日が奇蹟

沖縄在住の光雨ゆうすけです😊
保護猫たち😸と暮らす
穏やかな日々を楽しんでいます🌈

楽しい美味しい純菜食🥑で
健康🎉と寄り添い

ロボット開発歴🤖15年
心理カウンセラー歴💕21年の経験を活かし
節約年金生活💐とブログ
そしてYouTube🎥に挑戦中です🔰

ちまたはハロウィーンで一色

今月末は、ハロウィーンですね。
といえば、僕の大好きなカボチャです😊

今日、ハタチになった光雨のために、
彼も大好きなカボチャの画像で投稿のスタートです。

船出は2004年10月22日

僕と次女が沖縄に引っ越したのは、
2000年の12月末でした。

そのときの僕は、ピチピチの41歳。
若い!

那覇空港近くのアパートを借りた新生活でした。

次女の通う小学校、中学校もすぐそば、
年明けから出勤する僕の職場もすぐそば、

そして開店したばかりの、
ジャスコ那覇店が生活を支えてくれました。

その頃はジャスコの向いに、
無印良品も出店していて、
とても便利なロケーション。

ジャスコにまで足を延ばさずとも、
徒歩3分ほどで24時間営業スーパーのユニオンまであり、

引越し前に住んでいた滋賀県の大津市より、
はるかに住みやすい場所でした。

僕の職場は、
海洋CG映画を制作していた会社で、
僕の仕事は制作部のとりまとめ。

制作部のデザイナーたちは、
フレックス制勤務でしたので、

なかなか、
とりまとめは難しかったですが、

秋口に身体を壊すまで、
それなりに楽しく過ごせました。

そして僕が身体を壊して寝込んでいるとき、
9.11が起こりました。

空港に近いアパートでしたので、
周囲はレンタカー店が軒をつらねていましたが、

9.11で観光客は皆無になり、
信じられないくらい、
寂しい風景になったことを覚えています。

その後、縁があって、
那覇市公設市場内に3坪の店舗を借り、
光雨は船出しました。

それが2004年の10月22日。
20年前の今日です。

雑貨販売とカウンセリング、
フラワーレメディの販売を開始し、

カウンセリングをするには、
少々騒々しかったため、
翌年、北中城村に移転し今にいたります。

65歳になった僕がハタチの息子を迎える

僕は先月末に65歳になり、
一週間ほど前に初めての年金を受け取りました。

去った8月中旬の投稿で、

ねんきんネットで試算した年金支給額が、
イオンの副業より高額だと喜んでいましたが、

フタを開けてみるとだいぶ少なく、
かなりショックでした😢

そんな65歳になりたてで、
年金初心者の僕が、

今日、ハタチになった息子を迎えたのです。

よくぞひとりで、
ここまでやれたな…という思いが、
昨晩の寝る直前の感想だったのですが、

深夜にスマートウォッチのバイブレーションに突然起こされ、
心拍数が145を越えている警告をみてビックリ。

たしかに胸がドキドキしています。

変な夢を観た記憶はなかったので、
おそらく僕の無意識の世界で、
20年分の棚卸(たなおろし)がなされたのでしょう。

ふつうに考えても、
たったひとりの店舗営業は、
簡単なことではありません。

オンラインといえど接客をして、
ウェブサーバーを管理しながら、
ブログも毎週投稿し、

メルマガを毎週月曜朝に配信し、
光雨マンデーモーニングや純菜食料理動画もプロデュースし、

プライベートでも家事をひととおりして、
たくさんの猫たちのお世話もして、

お疲れさま!と何回いっても足りないくらい、
僕の無意識は疲れていたのでしょう。

脳症は足の問題を残すのみにまで回復

今年の6月末に脳症の悪化から、
イオンの副業を退職したことで、

いろいろな意味で、
良くも悪くも、
僕はとどめを刺されたのだと思います。

あれから4カ月経過し、
そのケアには年単位の時間がかかるといわれましたが、

手の震えや弱視、集中できない、
声が出ないなどの問題はほぼ解決し、

今は足のもつれだけが残っています。

医療による指導より、
わが家の食養生の方が効果的だったようです。

また、最後の問題となった足の不調のおかげで、
ゆっくり歩く癖がつき、
今では歩きながら呼吸を整えることもできます。

これは思わぬラッキーポイントでした。

身体もほとんど、
もちなおせた状態で、
ハタチの息子(光雨)を迎えられたことは、

とても大きな喜びです。

正直な話し、
20周年となる今日までは、
何が何でも光雨を守ろうと決めていましたので、

自分に課した大きな責任を、
はたすことができたことになります。

ですからこれからは、
いつまで!とは決めず、

気持ちよく続けられる仕事であるように、
僕自身も息子(光雨)も、
大切にケアしていこうと思うのです。