satoko's essay

第四話 苦しみと病について

苦しみと病。
どちらも、自分以外の人が、代わりに味わうことのできない孤独。
 
誰もが、病の苦しみや、病と言わないまでも、体のどこかが痛む体験をしたことがあるかと思います。
人はそうして、自分以外の人の痛みや苦しみに寄り添える心を、培っていけるのかもしれません。
 
ただ、自分が体験したことのある腹痛と、目の前の人が苦しんでいる腹痛は別のもの。
あなたの痛みや苦しみも、私の痛みや苦しみも、本人以外にはわからない。
 
それでも、目の前の人の痛みを想像すること、寄り添うことはできる。
 
痛むとき、一人で悶える苦痛。
痛むとき、苦しむ心に寄り添い、体をさすってくれる人がいる安堵感。
痛むけれど、一人にしておいてほしい苦々しさ。
 
私にやれることがあるとしたら…苦しみを感じている人に寄り添い、
痛みから解放されますようにと祈ることかも知れません。
私は、多くの苦しみは、より大きな自己へ至るための過程であり、
自ら選択しているような気がしています。
 
不遇、不運、恵まれない環境があることは、事実です。
それをどう感じ、どう在るかを決めているのは自分自身だと思うのです。
 
同じ環境で育っても、何に苦しみ、どんなことに喜ぶのかは、ひとりひとり違う。
ひとりひとりが、その人ならではの、苦しみや喜びを感じている。
 
でも、苦しいという感覚に気づけないこともあります。私自身の経験ですが、内なる感覚を蔑ろにして、
思考に偏った日常は、苦しみや、様々な感覚を鈍麻させました。
 
その私が、内なる感覚に気づき、リラックスしてそこへ目を向け、思考を超えて、大きな流れに
身を委ねるようになりました。そして、通ってきた道を振り返った時に、「あの時、私は苦しかった」と、
過去の感情を再認識できたのです。
 
苦しみと病。
最初に、どちらも、自分以外の人が代わりになれないと書きました。
 
つまり、自分自身に意識を向けるきっかけを与えてくれる、心身からのサインなのではないかと思えます。
このサインは、自分の内側からやってくる真実であり、断片的な知識に寄るものではありません。
 
たとえば、身体の不調に対して、食事での改善を試みようとする時、「○○(食べ物)が、体に良い/悪い」
という知識があったとしても、一番耳を傾けるべきなのは、自分の体の声なのです。
 
私は、子どもの頃から体が丈夫ではなかったこともあり、健康的な食の知識を得ては、実践してきました。
食べ物を摂り入れ、自分の身体と向き合う…の繰り返しです。
 
その中で、自分に合っているもの、合わないものは、必ずしも外的な知識に沿ったものとは限りませんでした。
そのため、食の知識はとても大切だけれど、一人一人の体質に合った食べ方、暮らし方は、定型化できるもの
ではないと感じるようになりました。
苦しみも病も、他の人と比較して解るものではありません。
ごく個人的なことだから。
 
人の五感は千差万別。
体質も、感じ方も異なるのだから、たとえば「自分は今、苦しく感じているけれど、他の人が同じことを
していても、苦しそうではない。自分は大袈裟なのか。弱いのかな。」と比較したりして、自分の感覚は
取るに足らないものだと、押さえ込んだりするものではないと思います。
 
私は、苦しみも、痛みも、喜びも、悲しみも、幸せも、
そう感じている自分を、まるごとOK!と認めてあげたい。
 
おそらく、そうすることから、自分の中に、愛や、自由や、平和が生まれて、
他の人との境界線のない、地続きの、大きなOKが育まれるのではないかなと感じています。