satoko's essay

第三話 自由について

「自由になりたい。なにものにも縛られず、解き放たれて生きられたなら、
どんなに清々しいだろう。」と、私はこの人生で、何度も、何度も、思いました。
 
不自由から抜け出せば、自由を手に入れられる!と、未来に、希望を描いていました。
でも、希望と言っても、光に満ちた希望ではなく、向かう先は、なぜかいつも薄暗いのです。
 
今なら、光が感じられないのは、魂の求める方向ではない。とわかるのですが、
それがわかるまでの間、拘束や制限と感じることから飛び出す行為に、
たくさんのエネルギーを注いできました。
 
たとえば、門限から、校則から、学校から、家から、親から、グループから、会社から…。
けれども、どれだけ不自由から遠ざかっても、「自由な今」が訪れることはなく、むしろ、
不自由で苦しい思いは、増幅しているように感じられました。
 
私は、この世界を「不自由で窮屈な場所」と考えていました。まるで自分が、巨大な蜘蛛の巣に
かかっているかのように、身動きがとれない感覚でした。
自由な世界は、夢物語なのかな。自由って、実際、どんなことだろう、と自問自答する日々が
続きました。そして、どうしたら自由になれるかの答えを、葛藤と実践を繰り返す中で、
私なりに、導き出していきました。
 
今の私が、どうしたら自由になれますか?と質問されたなら、こうお答えすると思います。
「自分自身の自由を受け入れて、自ら、自由の扉を開くことではないかと思います。
自由は今、すでにここにあるのですから。」
 
なぜ、不自由さでいっぱいだった私が、自分はすでに自由な存在だと感じるように
なったのかといえば、瞑想がきっかけです。
 
あるとき、好きなことを仕事にして、楽しんで活躍されている方から、
「私は、毎日瞑想しています。智子さんも、やってみるといいですよ。」と言われて興味を持ち、
瞑想を始めました。最初は、本や、誘導瞑想の音源から。そして瞑想の先生に習いました。
 
瞑想を始めると、寝てもとれなかった疲れやストレスが、すーっとほぐれていきました。
仕事場でも家でも、力んでばかりいた私が、リラックスできるようになりました。
初めに起こったのは、「自分が抱えていたものの解放」でした。
 
その後、朝と夕、一日二回の瞑想を継続するうち、とても自然な形で、自分の中の純粋な思いに
触れられるようになりました。すると、自分の意思で、やりたいからやっていると思っていた
様々な事が、実は、そうではなかった事にも気がつきました。
 
私は、近しい人の人生観や、考えをまるごと飲み込んで、自分の考えや、やりたい事なのだと
思い込んでいたのです。自分自身が、求めていたものは、近しい人の人生観や意見とは、
まったく別のものでした。独自の思いに目覚めたとも言えます。
 
それからは、不自由さから逃れるための行動や、外部の求めに応じた選択ではなく、自分の内奥の、
純粋な思いに沿って行動するようになりました。そのような行動は、とてもシンプルで、
人生にパワーを与えてくれました。真に、自分自身の人生を歩んでいる充足感が得られました。
 
今は、瞑想中だけではなく、日常の中で、自分自身の純粋な思いが聴けるようになりました。
固定観念、という言葉がありますが、私の、自由に対する固定観念、自分自身でかけていた
制限も、ほぐれていきました。
 
自分で作り上げた「不自由で複雑化した世界」と戦ってきたとも、内なる真実に触れることなく、
まるで一人芝居をしていたようだった、とも言えるかもしれません。
私が戦ってきたのは、自分自身でした。
 
今でも、日常の中で、「自由ではない」という気分になることはありますが、同時に、
「自由を拡大したい」という、内なる声だと感じられます。
 
そのとき、自分自身に自由であることをゆるした分だけ、人は自由になり、自らの自由を
受け入れるほど、自分も周りの人たちも自由になれるようです。
 
自由を制限する、自分自身や周囲からの圧力を感じるときは、自由を拡げる好機でもあります。
 
自分の中で起きていることを、本当に理解できるのは、唯一自分だけです。ですから、私は、
「不自由さ」を感じることがあると、自分の内側で起きていることを尊重するようにしています。
 
それが、物事を複雑化せず、シンプルに自由を受けとることだからです。