【第2話】光と闇について

光、闇。どちらもわからない。

心が動いていないのかな…

自分の内側に、無気力、無感動、冷酷さを感じ、不安定になっていたことがあります。

ー 光 ー

喜びに満ちて他者のために生きる人を見れば、眩しく感じて、自分に漂う感覚を押し隠すように引っ込めていました。そのたびに、自分でないものを装っていた私。

内側と外側に表しているものは大きくずれていました。私には、目の前のあなたのように、真にあたたかな血の通った心が、目覚める日は来るのかな…と、思っていました。

ー 闇 ー

闇の中、もがいて苦しむ人には、なにか、羨ましいような気持ちを感じることもありました。

私には、目の前のあなたのように、闇に足を踏み入れて、生を味わい尽くすようなあり方もできない…と。

光と闇。

どちらも感じられない宙ぶらりんの私は、自分の人生も、他者の人生も、傍観しているだけかもしれない。こうして何となく生きていては、誰かのために役立つことなどできないのだろうな…と、自分を、地球の落第者であり、部外者のように感じていました。

そして時が経ち、宙ぶらりんに感じた状態を抜けた後、振り返ってみると、あの時、私は、闇にいたのだと思います。

冒頭に書いた、私が羨ましく思い望んだ闇は、重苦しく重層的な感情を起こさせ、光の感じられない、暗い日々を体験させてくれました。

(今だから、「させてくれた」と思えるのですが。)

その時のことを思い出してみれば、私も、地球人の仲間入りができたのかな。という、少し誇らしいような気持ちが芽生えていた気がします。闇は、自分とは切り離されたような、縁遠い感覚があったので、「やっと、多くの人に近づける経験をさせてもらえている」、「この地球で生きている」と、思えた経験でもあったのです。

さらに、その後、光だけを見て、生きようとしていたこともありました。

闇の経験は、重く、苦しく、光が差し込めば、それだけを見て生きたい気持ちになったのです。

「ポジティブシンキング」という言葉がありますが、わき起こる感情は、ポジティブなものに転換、集約させようとして、内的なゆれ動きを無視し、「光の仮面」を被っていたのでした。

闇のときは、自分だけではなく、まわりの人も、つらい気持ちにさせていると感じていました。

ですから、私が、いつも明るく晴れやかであるほど、まわりの人に、心配や迷惑をかけることもないのだろうな。と、闇を、すっかり消し去った気分で生きていました。

しかし、「闇が自分の内側にない状態は存在しない」ということも、わかってきました。

信頼するセラピストさんから、闇についてお聞きし、印象的だった言葉があります。

「闇を内包した光が、真からの光。闇は、光の場所を教えてくれる。」

「自分の中の闇を受け容れている方は、存在自体が力強い。存在感が光を表している。」

「光だけではアンバランスで、闇も光も、どちらもひとしく大事に扱う尊重すべきもの。」

私が通ってきた道。光も闇もない状態。そして闇、光。

それらを経て、私は、人には、たしかに闇があり、光があるのだと認めることができたのだと思います。どちらも、ただ存在していて、どちらが良い・悪いというジャッジも必要ない。

闇を「問題」として扱い、想いの力で、光の方向へ切り替えたとしても、闇は闇のまま。

自分の中で無視された闇は、まわりの人に投影して、闇の存在を示してくることもわかってきました。

まわりの人の言葉、仕草、表情に「闇」を映し、ジャッジして、自分とは相容れないと一線を引く。

ときには、闇を映した相手の行動、言動が、堪え難く感じ、「あなたのそれが許せない」というエネルギーで関わる。そのように、自分の闇の部分を否定して切り離していると、緊張状態と、悪循環をつくり出します。自分らしく、いられなくなってしまうのです。

そうした経験から、私が大切にしているのは、「自分自身が、どう在りたいか。」ということです。

闇が、ただただ自分の中にあると認めた上で、自分が在りたいように、在る。

光は、光だけでは、それとわかりません。夜空に輝く星々のように、闇があるから、光がわかる。

もし、闇の中にいて、希望の光を感じられないようなとき、私なら、まず、ふーっと力を抜いてみます。光が通るスペースを、つくってあげるように。

光は、いつでも、自分の中にあるから。

いつでも、です。