猫の言葉

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

わが家の愛猫チアさんは、
娘の通っていた高校の裏山に
捨てられていたところを拾われました。

生後2週間以内の、まだ開眼していない赤ちゃんで、
足腰もしっかりしておらず、
低体温状態にも陥っていました。

お湯を張ったタッパーをタオルでくるみ、
その上で寝かせると、
幸せそうにスヤスヤと眠りました。

猫用ミルクを哺乳瓶で元気良く飲み始めたとき、
そして、立派なウンチをしたときには、
嬉しくて涙が出ました。

僕がミルクをあげているとき、開眼した彼女は、
その日以来、僕のコトを親だと確信して生きています。

僕も、彼女を本当の娘と思っていますから、
この関係は本物でしょう。

あれから6年が経過し、
特に外出したがらなかった彼女は、
家猫として育ちました。

家族とも仲良く、そして、
ひかりあめを訪れるお客様にも愛されています。

外出しませんので、
毎日出会うのは人間ばかりですから、

たまに動物病院に連れて行くと、
仲間のネコやイヌに対して、怪訝(けげん)な反応をします。

 誰?アナタたち?

…って、感じです。

彼女は、自分のコトをネコと思っていないのでしょう。

そして、最も不思議な点は、
親ネコ不在で育ったというハンディを持ちながら、
彼女は立派なネコ語でしゃべるというコトです。

ですが、僕に話しかける時だけは、様子が違うのです。

この点について、
あまり深く考えたコトは、無かったのですが、

もしかすると、

僕とのコミュニケーションで身に付けた人の言葉を、
ネコの声帯で発音しているのではないか…ということに、
今朝、気付きました。

そうだとすると、説明も付きます。

話し掛けて来る彼女に対して、
ネコのマネをして返答するより、

普段通りの人間の言葉で応えた方が、
チアさんは納得の表情を浮かべる点がです。

これは、僕がネコ語を喋れるようになったのではなく、
彼女が人間の言葉を、
手に入れたと言うべきでしょう。

やれば、出来るモノです。

人間である僕らも、見習わねばなりません。

子供の頃の記憶

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

今日は、子育て真っ最中の、
若いお父さん、お母さんへのメッセージです。

核家族化の進んだ現代では、
老夫婦が一緒に暮らしながら、
孫を教育するコトは殆ど無くなりました。

言い換えるなら、

大人として未熟な若い両親が、
模索しながら子育てに励んでいる状態です。

これは、絵的には微笑ましいかもしれませんが、
沢山の矛盾をはらんでいます。

第一の問題は、たった今言及したばかりですが、
子育てをしている当人たちが、
まだまだ成長過程だという点です。

第二の問題は、そうした子育て上の未知の領域を、
マスコミや学校、行政を通じて、
若い親たちは情報収集するしかないという点です。

そのせいで、昔だったなら、
単なる「元気な子」として扱われたはずの子供が、

集団教育に適さないという理由だけで、
病名を付けられてしまうことも珍しくありません。

第三の問題は、家族の規模が小さいため、
その家庭で生まれた小さな障壁を、
大げさに捉えて、越えられなくなってしまう点です。

家族一人の悩みが、
家族全員の悩みになってしまいかねないからです。

問題は、他にもありますが、
現状の悪い点を数えて欲しい記事ではありませんので、
このくらいにしておきましょう。

ここからは、
問題解決のためのヒントをご提供します。

その答えは、僕たちの、
子供の頃の記憶にあります。

僕たちは例外なく、
子供時代を体験して大人になりますよね。

子供の頃の自分を、思い出しましょう。

両親の悲しそうな顔や、
歯を食い縛って何かに耐えている顔を見たとき、
あなたは幸せだったでしょうか。

嬉しそうな顔をしているけれど、
本当は泣きたいんだろうなと、
親の気持ちを察したコトもありましたよね。

一方、心底楽しそうにしている両親を見たときは、
自分までハッピーな気持ちになれたはずですし、

一緒に遊んだ想い出は、
かけがえの無いモノだったはずです。

それなのに、自分が親になった途端、
まるで、自分が子供だったコトを忘れたかのように、

現代の若い親たちは、
世間体に振り回され始めます。

おかしいと思いませんか?

自分が子供だった頃、親にして欲しくなかったコトを、
今の自分がしているという事実に気付いたなら、

一刻も早く、その状態から抜け出しましょう。

「子供のために」を合言葉に、
趣味さえ捨てた余裕の無い日々は、
結局、子供のためにはならないのです。

魅力のある親になりましょう。

四十肩/五十肩

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

高校1年生の時の僕のクラスの担任は、
古文を教えるM先生でした。

40代後半の、小柄な男性です。

授業はもちろん、
生徒たちとの接し方も厳しく、
まさに古き良き先生の代表格の様な方でした。

彼は授業が終ると、
黒板に書いた文字を辛そうに消した後、

右腕を肩の高さで回しながら、
眉間にシワを寄せていたので、

興味を持った僕は、
その仕草の根拠を彼に尋ねたのです。

 腕が上がらないのさ。
 四十肩っていうんだ。
 年を取ると、みんながなる病気だよ。

彼の説明によると、
前方からは右腕を旋回でき、
それなりに、高く腕を挙げるコトもできるのに、

側方からは、殆ど挙げられないと言う、
15歳でピチピチの身体の僕たちには
到底理解不能な症状に、

日々、彼は悩まれていたようです。

加齢とは恐ろしいものだという印象が、
僕の脳裏に焼き付いたのは、
言うまでもありません。

さて、それから38年が経過し、
その間にロボットのエンジニアや歌手を経験し、
自然療法家として落ち着いた僕でしたが、

自らの乾癬治療を通じて知り得た
エドガー・ケイシーの言葉をヒントに、
先週からオステオパシィを学び始めました。

人間を生活習慣が骨格の変形を招きますが、

その結果、慢性化してしまった様々な身体問題を、
この手技は解決してくれます。

四十肩や五十肩は、まさにその好例です。

日々の姿勢の悪さや運動不足が、
肩甲骨や鎖骨を癒合させてしまい、

動きが制限され、
痛みを伴うようにまでなった状態がこの症状であり、

M先生も例外ではありませんでした。

この手技で、
こうした肩の問題を解決するためには、

腰椎の4番、5番と、胸椎の1番、2番、6番、
頚椎の4番から7番と、肋骨の1番、2番の調整を行います。

これらを正常に動くようにすることで、
この症状は改善しますが、

実際に行うことは、
各部位の動きの鈍い方向を探し出し、

その反対方向に、数グラム程度のベクトル性の刺激を与え、
正しく機能するように調整して行きます。

施術をしていると、リンパの流れが改善され、
手を通じて脈動が伝わって来るのですが、
生命の息吹を感じる、それはそれは、素敵な瞬間です。

数グラムの力ですから、腕力は不要ですが、
骨格の微細なズレを検知したり、
こうした施術中の脈動を感じたりするために、

掌全体が生体センサーとして機能するよう、
その感度に磨きをかけねばなりません。

楽器の演奏や、
サトルエナジィ・アセスメントにも通じる手技ですので、
僕には向いているようです。

数十分ほどの施術ですが、
これによって、まず痛みが改善され、
腕の動作は本来の状態に戻ります。

しかし、その後も、
患者さんが同じ姿勢を続け、運動が不足すれば、
再び問題が起こります。

多くの社会人が、運動が足りていない点、

そして、座っている時間が長いにも関わらず、
その姿勢に対して無頓着な点が、

こうした問題を引き寄せるのです。

筋肉は形状を記憶する組織ですから、
背骨を丸めて腹部に脂肪を寄せ集めると、

お腹の周囲の筋肉が、
その状態を保持させるように形状記憶をはじめます。

ですから、ダイエットを気にする前に、
まず、姿勢を気にするべきです。

壁に背中をくっつけて、
自分の姿勢がどれだけ曲がっているかを、
知るコトからはじめましょう。

脊椎の問題は、集中力を低下させ、
自律神経の問題にも直結します。

薬を飲む前に、姿勢を正しましょう。

自由を手に入れましょう

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

自分という存在は、
間違い無く、自分の制御下にあるはずなのですが、

神様は、それを自覚できないように、
僕たちを創造されました。

ですから、
その真実を知ることができれば、
現世は成功したも同然です。

そのための近道が、
自分自身を受け容れるコトであり、
身を任せることですが、

それは決して、
諦めるという意味ではありません。

この誤解が、真実の理解への道を、
塞いでしまいます。

諦めという言葉のニュアンスには、
自分への抵抗が存在しているコトに気付きましょう。

それは、少なからず存在するなどという、
可愛いらしいレベルではなく、

物凄く巨大な抵抗です。

あまりに大き過ぎるため、
あなたの中の民主主義が、
勝手な結論を導き出しているのです。

その原因は、考え過ぎにあり、
柔軟性や客観性に欠けた決め付けにあります。

多くの偉人が、
瞑想を通じて悟って来たという事実は、
単なる偶然でしょうか。

悟りを得るためには、

モノの味方や考え方から、
自由になる必要があるからに他なりません。

五感を塞ぎ、
思考を止めるコトによってしか、

日々、間違った解釈の中で生きる自分の方向性を
修正することはできないと、

先達は僕たちに教えてくれているのです。

自分への抵抗を手放し、
世間体という不要な律法を手放し、

ナチュラルで、健康で、
幸せな人生を楽しみましょう。

誰かのために生きる必要はありません。

誰かを幸せにできるのは、
心底幸せな、あなただけです。

心を配る

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

心を配ると書いて「心配」と読みます。

「配慮」という単語も
周囲への心遣いを意味します。

心を配ることも、周囲を配慮することも、

この社会における大切な作法のように、
僕たちは教えられていますが、

本当にそうなのでしょうか。

多くの人々は、
そうした心配りをきっかけに、
不安を握り締めているように見受けられます。

特に、家族やパートナーの間柄で、それが顕著です。

自分を蔑(ないがし)ろにしながら、
他人の世話をしようとしているため、

善意の配慮のつもりが、不安を引き寄せるのです。

他人の心配をする前に、
しなければいけないコトが、
自分の世話です。

朝、気持ちよく起床できない自分が、
誰かを寝床から叩き起こしていませんか?

自分の偏食を棚に上げて、
野菜嫌いの家族を叱っていませんか?

小さい頃、自分自身が勉強嫌いだったのに、
子供に勉強を強い、試験の結果が良くなるようにと、
その表情に青筋を立てていませんか?

こうしたモノは、
心遣いでも、配慮でもない、

ただのおせっかいであり、干渉です。

神様も、隣人を愛せとおっしゃいましたが、
心配せよとはおっしゃっていません。

まずは、自分作りからです。

あなたの魂の乗物として、
あなたの身体は、相応しい状態になっていますか?

自分自身を輝く存在にすれば、
周囲の人は、あなたに倣わざるを得なくなります。

僕たちひとりひとりは、
身近な成功者の一例となる必要があるのです。

成功者とは、お金持ちではありません。
お金では買えない、本物の健康を手にした人です。

そしてまた、本物の健康でさえ、

病気にならないコトでもなければ、
事故に遭わないコトでも、
不安に襲われないコトでもありません。

そうした問題に出くわしても、
試練を学びに変え、
その壁を乗り越えられる人こそが、

本物の健康を手にした人です。

運動不足の結末

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

止まった水は腐ります。

人の身体も、全く同じで、
運動の足りない部位は弱くなるし、

使わなかったり、意識を向けない筋肉は、
その役割を放棄してしまい、

たるんだり、脂肪が付いたりするだけでなく、

ついには、動かすことさえ、
できなくなってしまいます。

これは、身体の一部が腐るコトを意味します。

運動不足が、身体に良くないと知っていても、
仕事や家事だけに忙殺されていると、

代謝が落ちたり、
太ったりするだけでは済まず、

ついには、身体の一部から、
死を迎えるコトになってしまうのです。

少しは、危機感を抱きましたか?

それでも、きっとあなたは、

毎日の職場への出勤や買い物で、
身体はそれなりに動かしているから
大丈夫だと高を括っているでしょう。

ところが、日々の決まった動作だけでは、
どうしても、使わない身体部位ができてしまいますし、

一番問題となるのは、
決まった動作に対して、人は意識を向けないため、

筋肉は効率を重視して、最小限の収縮しかせず、
本来持つ完全な機能をしないのです。

そう言った意味では、

決まった動作をしているだけでは、
全く運動をしないのと、変わらないかもしれません。

しかし、こんな話しをすると、

自分はスポーツジムに通っているから大丈夫だと、
別の意味で高を括る人もいるでしょう。

ところが、マシン・エクササイズでは、

脂肪は燃焼するけれど、
歩いたコトや、走ったコトには、
ならないのです。

ベルトコンベアを逆走する運動では、
骨格や筋肉の機能を無視した、
人間らしくない動作を強いられるからです。

僕は、1970年の大阪万国博覧会で、
はじめて動く歩道を体験したとき、
気分が悪くなりました。

世界各地の空港でも、
今やそうした設備は当たり前の様に存在しますが、

確かに当時と似た身体感覚は、
50歳を過ぎた今でもあります。

所詮、人間の作った機械による運動では、
不十分なだけでなく、不自然だと言うコトです。

ですから、せっかくウォーキングをするのなら、

コンベアの上を淡々と歩くのではなく、
朝の小道を、気持ち良く闊歩しましょう。

意識を向けるだけでも、
筋肉は脳から信号を受けて反応しますから、

意識しながら、
そして、良い呼吸をしながら歩くことは、
動物である人間には、最高の運動となります。

ちなみに、普段使わない部位に、
ただ、手で触れるだけでも、
何もしないより遥かに良いことです。

感覚を通じて、脳がそこに意識を送るからです。

そういった観点では、
ストレッチやヨガも、
身体機能の維持には理想的と言えます。

晴れた日はウォーキングで、
そして、雨の日はストレッチやヨガで、
一日をスタートさせましょう。

趣味と学び

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

趣味と学びについて、
お話ししたくなりました。

学校は、必ずしも要りませんが、
学びは、人生に不可欠です。

学校に行かなくても、
立派な人間になれますが、

良い人生を送る人々は、
例外無く学んでいます。

難しく考える必要はありません。

自分にとって、興味のあるコトだけを、
一生懸命学べば充分ですし、

「学ぶ」という表現に抵抗があるなら、
「取り組む」という単語に代えましょう。

好きなコトに、真剣に取り組めば良いのです。

何かを極めるためには、
付随した知識や経験が必要になりますが、

そうした形で、知識の裾野を広げるのなら、
抵抗感や苦痛は感じ難いモノですから、

結果として、
バランス良く学ぶコトになります。

また、自力で解決できない壁に
必ずぶつかりますから、

情報を得るために
コミュニケーションが不可欠だと知ります。

そうなれば、語彙も増えますし、
礼儀も知ることになります。

そうやって、成長することで、
宇宙との分離感が無くなり、

健康で幸せな、人生を送ることができるのでしょう。

もちろん、生身の人間ですから、
病気や事故に遭いますが、

学びを知り、分離感の無い人々は、
すぐにまた健康を手に入れます。

しかも、同じ間違いを繰り返しません。

彼らは、学んでいるからです。

また、トラブルに巻き込まれたり、
不幸にも直面しますが、

学びを知り、分離感の無い人々は、
すぐに軌道を修正し、
トラブルや不幸を経験に変えます。

こうして育つ、問題や課題に対する免疫力は、
学び方を知っているからこその授かりモノです。

特に日本人には、
仕事に一生懸命という人も少なくないようですが、
それは、どうなのでしょうか。

仕事によって得られる報酬が
目的になってしまうと、それでは、ただの物欲です。

仕事の質やプロセスを愛し、
そこを極めるのであれば価値がありますが、
なかなか、そうはいきません。

だからこそ、唯物的な現代においては、
趣味が大切になるのです。

ですから、仕事や家事に追われて、
趣味を失うことは、

健康や幸せから、
縁遠くなるコトを意味します。

しかし、残念ながら、

趣味を持つことに、
抵抗のある人も多いのも事実です。

自分だけ好きなコトをやって
誰かに迷惑をかけるワケにはいかないと、
彼らは思うのです。

しかし、宇宙と分離し、
健康や幸せから縁遠くなる方が、
迷惑なのではないでしょうか。

誰かを心配する暇があるのなら、
趣味に没頭しましょう。

趣味は、学びをもたらし、
健康と幸せをもたらします。

精霊を呼ぶ楽器

笑ってますか?
唄ってますか?
ゆうすけです。

昨日は、東アフリカのケニアから来沖された、
スワレ・マテラ長老の講演会に参加して来ました。

インド洋に面したミリデインという村で、
沢山の家族と暮らす、ドゥルマの民のお一人です。

彼は、ムガンガ(夢予知者)という力を神様に授かり、
カヤンバという打楽器を使って、
霊障や病気に苦しむ人々を癒す仕事をされています。

方法や道具は異なるものの、
誰かを癒すという仕事に共通する何かを、
共有することのできた素晴らしいヒトトキでした。

ちなみに、その地方では、
50歳を越えると長老と呼ばれるそうですので、

僕も、こと年齢に関してだけは、
すでに、長老の域に踏み込んでいるようです。

この講演を紹介して頂いた方からは、
長老は高齢なので、

今回の来日は、
最後の機会になるだろうと伺っていましたが、

2時間の講演は、ずっと立ったままの、
身振り手振りを織り交ぜた、エネルギッシュなモノでした。

まだまだ、元気で活躍されることでしょう。

そんなドゥルマの人々ですが、

彼らは、太鼓と踊りと祈りを組み合わせた先祖供養を、
日々の暮らしに盛り込んだ、独特な文化を有しており、

夜、その地で写真を撮ろうものなら、
ペポと呼ばれる沢山の精霊や先祖霊たちが、
被写体の中でシャボン玉のように映り込みます。

講演の中で、その写真を何点か拝見しましたが、
それは、綺麗な乳白色の球状のもので、

大きさは、コブシ大ほどから、
人の顔ぐらいまでと様々です。

人の目には映らないので、
カメラのレンズフレアのような仕組みで、
フィルムに焼き込まれているのかもしれませんが、

その球状のペポたちは、
例外なく、バランスの良い真円を成しているのが、
僕には特徴的に見えました。

フラワーレメディの世界でも、
花の全体像の均衡の程度が、
エネルギーの持ち味を左右します。

きっと、ミリディン村のペポたちは、
日々の供養に満足しているからこそ、
綺麗で調和の取れた形を保っているのでしょう。

例えば、5~6人の子供たちを被写体に写真を撮れば、
百個前後もの、大小様々なペポが映り込みます。

人の数より、圧倒的にペポの方が多いのです。

僕たち人間のように、物理的な身体を宿った魂は、
実は、物凄く稀少な存在だということは、

頭では理解していたつもりでした。

しかし、こうして、
写真として目の当たりにすると、

僕たちは、多くのペポを代表して、
自由に動く身体を手に入れている有難さが解ります。

現世に、生きた証を遺せるということは、
身体を持ったモノだけに、
奇跡的に許された力なのですから、

不平不満を言ったり、
確信や自信が無いと言って、
前進を躊躇している場合ではありません。

身体を使って前進し、失敗は学びに変えて、
限られた人生を謳歌したいものです。

講演の後、カヤンバを購入させて頂きました。
興味のある方は、店頭で演奏をしてみて下さい。

あなたのペポに、
出会えるかもしれません。

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